サウンドホールの匂い - 1 -

これはフィクションでもありノンフィクションでもある、自身の記憶を書き綴ったものである。

プロローグ

本当は、このことが一番書きたかったことかもしれない。現実だったのか、あるいはずっと夢をみていたのか… もし夢だったのなら、あまりにも長い15年間のことを…。

クラシックギターのサウンドホールの、少し懐かしい木の香り。この香りを嗅ぐたびに、先生のことを思い出す。楽しかったといえば楽しかった15年間だった、しかし同時に、中途のまま終わってしまったことによる後悔の念が残っている。本来なら、その15年間は形を変えてずっと続く筈だった。

でも、中途だと思っていたのは僕だけで、先生にとってはそうではなかったのかも知れない。それは自分のせいなのか、だとすれば何がいけなかったのだろう?

- I -

「とても綺麗な音ね、他の人にはなかなか出せないわよ」

社会に揉まれてだいぶ経ち、忘れかけていた音楽に再び浸ることになって少し経った頃、僕の弾く音色を、先生はそう褒めてくれた。その言葉が、先に入った他の生徒たち追い越して上達しているのだという優越感に浸ることが出来た。そして、もっとそんな言葉が聞きたくなり、練習に時間を費やした。

ただの自己満足かもしれないが、同時に心の渇きを潤すには十分だった。

今思えば、その頃仕事に行き詰まり、会社をやめるか留まるかで上司と面倒な交渉が続き、心が擦れて乾いていた時だった。その心を潤す何かが必要だったのかも知れず、それがたまたまクラシックギターだっただけだ。

学生の頃、受験勉強もそこそこにアマチュアバンド活動に明け暮れた、もしかしたら、そんな未熟ゆえキラキラしていた頃の自分に戻れるかもしれないという、淡い気持ちもあった。いっぱしの大人が、何を青臭いことをと思うかもしれないが、そんな感情は誰にでもあるかもしれない。

- II -

きっかけは、先にピアノ教室に通っていたパートナーに触発されて、同じ音楽教室のクラシックギターを習おうと思ったことだった。

僕のパートナーは、年1回のピアノ発表会のときに人前で演奏することに緊張してしまい、本来の実力が出せずに悩んでいた。それを励ますつもりで、
「じゃあ、僕はクラシックギターでも習ってみようかな?発表会もあるだろうから、お互い緊張しないよう頑張ってみようよ!」
と言った。

数日後、パートナーとともにその音楽教室を訪ね、受付でクラシックギター教室に入りたいことを告げた。受付の女性は、曜日によって2講座あると言い、それぞれ違う講師だと説明してくれた。どちらでも良さそうだと思ったが、より仕事帰りに通いやすい火曜日の教室を選んだ。

訪れたその日は水曜日のため、火曜日を受け持つ先生がいるわけないと思ったが、たまたま水曜日も担当していたため、今なら体験レッスンを受けることができると受付の女性に勧められた。

言われるままその教室へ連れていかれ、まだ体験レッスンを受けるとも受けないとも伝えないうちに、その女性は教室のドアを開けてしまった。

- III -

見た目はふつうのおばあちゃん、年の頃は60~70歳台というところか…

初めての先生の印象はそんな感じだ。ちょうど自分の母親くらいの年齢ということになる。すでに他の生徒さんがレッスンを受けているところを、無理に体験レッスンと言って入ったのだから、おとなしくしていた。

「あなた、ギターは初めて?私はクラシックとフラメンコの両方を教えているの。日本では珍しいらしいわよ?年に一度、私の自宅で発表会も行っているの。」
おっとりでもなく、でも早口でもなく、自分が教えていることを簡単にまとめて話してきた。

クラシックギターは知っていたが、フラメンコギターはどんなものか、正直なところ分からなかった。たぶんTVなんかできたことがあるような気はする。

その頃ラジオで聞いて、「こんな曲が自分で弾けたらなぁ」と思う曲があった。村治佳織が弾く「カヴァティーナ」だった。その頃の自分の乾いた心を潤すその曲を、何度も聞いた。そしてこの曲が、久しく遠ざかっていた音楽の道へ自分を呼び戻したと言っても過言ではない。

以前アコースティックギターなどを弾いていたことがあることを告げると、先生は
「じゃあ、コードはわかるわね?それなら上達も早いと思うわ。ここの教科書の課題曲は一通りなぞるけど、それが終わったら好きな曲を弾くこともできるから…」
といった。
それなら、「カヴァティーナ」も練習できるかもしれない、そう思った。

他にどんな人がレッスンを受けているかもわからなかったが、そんな気楽なギターレッスンなら、少しやってみようと思い、その日に入学手続きを済ませた。

〈不定期に続く、予定〉
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